Masuk後輩を駅で降ろし、家へ帰る頃には、夜の帳がすっかり街を包んでいた。駐車場へ車を停め、エントランスへ向かう足取りは重い。
つい数時間前まで、胸を弾ませながら歩いた同じ道とは思えなかった。
玄関の鍵を開ける。静まり返った部屋には、人の気配はない。
「……ただいま」
返事がないことは分かっている。それでも長年の癖で、声が自然と漏れた。
靴を脱ぎ、リビングへ入る。智也はまだ帰っていない。そのことに安堵した自分がいた。
今、彼の顔を見たら、何を言ってしまうか分からない。
ソファへ腰を下ろし、大きく息を吐く。視線を上げた先で、寝室のドアが半開きになっていた。
昼間、慌てて飛び出したままの部屋を見て、澪はゆっくりと立ち上がる。
寝室へ入った瞬間、ベッドの上に置かれた紙袋が目に飛び込んできた。
淡いアイボリーのワンピース。三周年の記念写真を撮るために選んだ特別な一着。
そっと紙袋を抱き寄せる。そして柔らかな布地を指先で撫でると、胸の奥がじくりと痛んだ。
不意に、視線がクローゼットへ向いた。それは、あの振込明細を見つけた場所。たった一枚の紙が、自分の世界を変えてしまった。
五千万円。
私には貸してくれなかった、お金。
白石琴葉。
そして、智也の冷たい声。
――『彼女は、ただ責任上の存在だ』
「……っ」
胸を押さえ、澪はその場へしゃがみ込む。
息が苦しい。頭では忘れようとしているのに、あの言葉だけが何度も何度も蘇る。
それでも、信じたくなかった。
「何か……理由があるんだよね?」
そう呟きながら、自分でも苦笑してしまう。
(誰に問いかけているのだろう。返事をくれる人なんて、どこにもいないのに――)
瞼を閉じると、思い出したくもないほど幸せだった頃の記憶が、ゆっくりと蘇ってきた。
まだ大学生だった二人が初めてデートをした時、智也は笑顔で右側を歩き、車通りを遮ってくれた。
彼が付き合いでお酒を飲みに行った夜は、酒臭さで澪が不快にならないか心配して、帰ってくるといつも客室で寝ていた。
出会ってから結婚一年目まで、智也は澪に対して至れり尽くせりの優しさを見せた。だからこそ、今の現実が信じられない。
「……全部、嘘だったの?」
ぽつりと零れた声と同時に、一粒の涙が頬を伝った。止めようとしても止まらない。涙は次から次へと溢れ、膝の上へ音もなく落ちていく。
「智也さん……」
震える手で、スマートフォンを手に取る。
聞きたいことがあった。どうして五千万円だったのか。どうして白石琴葉なのか。どうして、自分にあんなことを言ったのか。
確かめたい。もし誤解なら、そう言ってほしい。
連絡先を開き、智也の名前へ指を伸ばした、その瞬間だった。
――ブルルルッ。
突然、スマートフォンが震える。画面に表示された名前を見て、澪は小さく息を呑む。
『御子柴 美佐子』
それは、義母からの着信だった。夜に電話をかけてくるのは初めてだった。
嫌な予感を押し殺し、通話ボタンを押す。
「もしもし……お義母さん、どうされましたか?」
『澪さん。今すぐホテルグランシアへいらっしゃい』
挨拶も前置きもなく、義母は一方的に告げた。
「え……? 今から、ですか?」
『ええ。二階のフレンチレストランで待っています。急いでください』
「申し訳ありません、今日は本当に疲れていて……。別の日にしていただけませんか?」
精一杯穏やかに断ろうとした。しかし、美佐子の声は冷ややかだった。
『駄目です』
きっぱりと言い切られる。
『あなたに、大事なお話があります。――智也に関することです』
一方的に電話を切られた。
澪はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。今日だけで、何度「大事な話」を聞けばいいのだろう。
正直、行きたくなかった。けれど、無視すれば智也に迷惑がかかるかもしれない。
そう考えてしまう自分が、情けなくもあった。
「……まだ、癖が抜けない」
澪は静かに立ち上がり、バッグを手に取った。
しばらくして、悠臣から返信が届いた。『そうでしたか。澪さんがご自身で決めたことなら、その決断を尊重します』 続けて、もう一通。『一区切りついたら、お祝いをさせてください。今夜、お仕事が終わったあとにバーへ行きませんか? もちろん、ご都合がよければ』 澪は画面を見つめた。 お祝い。 離婚を決めたことを、誰かと祝う。 そんなことを考えたこともなかった。 終わった結婚を悼むべきなのか。これまでの年月を無駄にしたと嘆くべきなのか。 けれど、澪が失ったものばかりを数える必要はないのかもしれない。 自分で決めたことなのだから。 これから先、自分の時間を何に使うのか。誰と過ごすのか。どんなことに喜びを感じるのか。 それを、今度こそ自分で選んでいい。 澪は、もう一度スマートフォンに指を滑らせた。『ありがとうございます。ぜひ、ご一緒させてください』 送信すると、ほどなくして悠臣から返信が届いた。『ありがとうございます。それでは、こちらのお店はいかがでしょうか』 続けて送られてきたのは、バーの公式サイトのリンクだった。 澪は何気なく画面を開き、思わず目を留めた。 落ち着いた照明に、磨き上げられたカウンター。窓の向こうには街の夜景が広がり、店内にはゆったりとした時間が流れているようだった。 想像していたよりも、ずっとおしゃれな場所だった。 仕事帰りに立ち寄る、気軽な居酒屋のような店を思い浮かべていた澪は、少しだけ戸惑った。 もちろん、服装に決まりがあるわけではないだろう。 それでも、せっかくなら――。 そう考えたところで、もう一通、悠臣からメッセージが届いた。『十九時にお迎えに上がります。お仕事の都合などで変更が必要でしたら、遠慮なくお知らせください』 澪は、画面を見つめながら小さく笑った。 迎えに来てくれる――たったそれだけのことなのに、胸の奥が少し弾んだ。 誰かと夜に出かける約束をして、その時間を楽しみに待つ。 そんな気持ちを、最後に味わったのはいつだっただろう。 智也と結婚してからは休日の予定も、食事の時間も、彼の都合を考えることが多かった。自分が何を着たいかよりも、どこへ行くのか、何をするのかよりも、相手に合わせることが先になっていた。 いつしか自分のために何かを選ぶことさえ、後回しになっていたのかもしれない。
智也は署名と捺印を済ませた離婚届を封筒に入れ、澪に渡すために連絡を取った。 返ってきたのは、会う日時と場所を伝える短い返信だった。 離婚したくないという気持ちは、まだ消えていない。 できることなら、もう一度やり直したい。これまでの失敗を認め、変わりたいと伝えることもできる。 けれど、自分の願いだけで澪の意思を縛ることはできない。 ようやく、そのことを受け入れ始めていた。 *** 指定されたのは、互いに落ち着いて話ができるホテルのラウンジだった。 約束の時間に到着した智也は、先に席に着いて澪を待った。 やがて現れた澪は、挨拶を交わすと、向かいの席に腰を下ろした。 智也は鞄から封筒を取り出し、テーブル越しに差し出した。「……署名と捺印は済ませた」 澪は「ありがとうございます」と短く答え、封筒を受け取った。 中の離婚届を確認し、そこに記された智也の名前を見ても、表情を大きく変えることはなかった。 驚きもない。安堵も、勝利感もない。 ただ、必要な手続きの一部として受け取っているように見えた。 智也は、彼女が本当に離婚を望んでいるのか、最後にもう一度だけ確かめたくなった。 しかし、澪の態度には迷いがなかった。「実はね、その離婚届を用意したのは、智也さんのお義母様なのよ」 思いがけない言葉に、智也は顔を上げた。「……母が?」 「ええ」 美佐子が澪に離婚届を渡していた。 智也は、今初めてその事実を知った。 母は、いつから離婚を考えていたのだろう。なぜ澪に、そんなものを渡したのか。 そして、そのとき澪は何を思ったのか。 自分の知らないところで、母と澪の間では話が進んでいた。妻がどれほど思い詰め、どこまで決意を固めていたのか、自分は何も知らなかった。 言葉が喉まで出かかった。 母が何を言ったのか、澪はどう答えたのか。問いただしたいことはいくつもあった。 けれど澪は美佐子を責めるために、その事実を伝えたのではなかった。「お義母様に言われたから、離婚を決めたわけではありません。私は、自分で決めました」 澪は、智也の目を見て告げた。「離婚したいという気持ちは、誰かに言われて生まれたものではありませんから」 智也は、何も言えなかった。 澪の決意は、一時の感情ではない。誰かに促されたからでも、勢いで口にしたことでもない。
琴葉には、与えたいと思った。 そして澪には、与える必要があるのか――。 こうして考えることによって、自分がしてきたことの違いが、今になってはっきりと見えてきた。「……大切だと思っていたよ」 智也は、ようやく答えた。「お前が喜ぶのは嬉しかった。昔から好きだった相手だから、力になりたいとも思っていた」 「だったら、どうして……」 「でも、それを理由にして、俺は何をしてもいいと思っていたのかもしれない」 琴葉は、黙り込んだ。「お前が望むものを与えることと、お前を大切にすることは、同じじゃなかった。それに……」 智也は、一度言葉を切った。「お前を特別扱いすることで、俺は自分が何をしているのか、見ないようにしていたんだと思う」 妻がいること。 琴葉との関係が、その妻を傷つけていること。 澪の願いを退けながら、琴葉には惜しみなく与えていたこと。 そのすべてを自分にとって、都合のいい理由で覆い隠してきた。 初恋だったから。 琴葉が喜ぶから。 自分も、彼女といる時間を大切に思っていたから。 けれど、どんな理由を並べても、澪を傷つけた事実は変わらない。 そしてこれ以上、琴葉を特別扱いし続けることも、もうできなかった。「それって……私が悪いっていうの?」 琴葉が、小さな声で訊ねた。「そういう話をしているんじゃない」 「じゃあ、どうして別れるなんて言うの? 私たち、ずっとお互いを想っていたじゃない。好き合ってるのにどうして?」 「想っていたからといって、続けていい関係じゃなかったんだ」 「智也くん……」 懐かしい呼び名を口にした琴葉は、膝の上に置いた両手を握りしめる。「俺には妻がいた。それなのに、お前との関係を続けた。お前が望むものを与えながら、澪の気持ちを考えなかった。それは、俺が選んだことだ」 琴葉の目に、涙が浮かんだ。「……奥さんのところに戻りたいの?」 その問いに、智也はすぐには答えられなかった。 澪とやり直したい。 その気持ちは、今もある。 けれど、澪が自分を受け入れてくれるとは限らない。むしろ、彼女はもう自分のもとへ戻るつもりがないとはっきり告げている。 それでも、琴葉との関係を続ける理由にはならなかった。「澪がどうするかと、俺が何を終わらせるべきかは、別の話だ」 智也は、静かに告げた。「俺は、自
澪がいない家に帰ることにも、少しずつ慣れていくはずだった。 仕事を終え、玄関の扉を開ける。明かりをつけ、上着を脱ぎ、誰もいないリビングを横切る。 それだけのことだ。 以前だって、澪がいつも自分を出迎えてくれたわけではない。仕事で帰りが遅くなれば、彼女は先に休んでいることもあった。 それでも、家の中には誰かがいるという気配があった。 食卓には、澪が用意してくれた食事が並んでいることがあった。仕事で疲れて帰れば、何気ない会話を交わすこともあった。 智也が仕事の話をすれば、澪は自分の手を止めて聞いてくれた。 時には、智也自身が気づいていなかった問題を指摘してくれることもあった。 あの頃の自分は、それを特別なことだとは思っていなかった。 妻なのだから、夫の話を聞くのは自然なことだ。家庭を整え、夫を支えるのも、結婚生活の一部なのは当然だ。 そんなふうに考えていた。 けれど、今になって思い返せば、澪はいつも自分の時間を使って、智也のために動いてくれていた。 彼女自身にも仕事があり、考えるべきことがあり、やりたいことがあったはずなのに。 智也は、そこまで考えたことがなかった。「……今更、か」 誰もいない部屋で、思わず呟く。 気づくのが遅すぎた。 そのことは分かっている。だからといって、すぐに諦められるわけではなかった。 澪と離婚したくない。 その気持ちは、今も変わっていなかった。 むしろ、彼女が自分のもとへ戻るつもりがないと知るほどに、失いたくないという思いが強くなっていく。 話し合えば、まだ何かできるのではないか。 自分が変われば、澪も考え直してくれるのではないか。 そう考えずにはいられなかった。 けれど、澪ははっきりと言った。 自分はもう、智也の妻でいることを望んでいない、と。 あのときの彼女の声が、今も耳に残っている。 怒鳴られたわけではない。泣かれたわけでもない。 ただ、決めたことを淡々と伝えられただけ。だからこそ、何も言い返せなかった。 以前なら、澪が自分の言葉に耳を傾けてくれることを疑わなかった。多少強引に話を進めても、最後には彼女が折り合いをつけてくれる。そう思っていた。 だが、今の澪は違う。 こちらの話を聞いたうえで、自分の意思を変えないと決めている。 智也がどれほどやり直したいと願っても、彼女に
*** 研究所でも、調査結果が共有された。 研究員の松本によるデータの持ち出しと、その情報が外部へ流れた経路。様々なルーツを辿って御子柴智也に渡り、入札で利用された数字との一致。 これまで積み重ねられてきた記録がつながり、情報漏洩事件の全容が、ようやく明らかになった。 澪は報告を聞き終えると、静かに資料を閉じた。そばにいた担当者は、安堵のため息を吐いてから口を開く。「これで、流出した情報の経路はすべて特定できたんですね」 「ええ。もちろん、再発防止のための対応は必要だけれど、今回の件については、ようやく全体像が見えたわ」 担当者の言葉に、澪は小さく頷いた。 長い調査だった。 自分の研究が不正に持ち出され、関係のない会社の入札にまで利用された。研究所の人間として、決して看過できることではなかった。 けれど調査を終えた今、澪の中に残っているのは、怒りだけではない。 自分が守るべきものは何か。 何を明らかにし、何を次につなげるべきなのか。 その答えを、改めて考える機会にもなった。「今回の件を踏まえて、データの管理体制を見直します。アクセス権限の再設定に加えて、外部への情報共有手順も変更する予定です」 「そうですね。大切なデータを扱う以上、同じことを繰り返さない仕組みが必要だと思います」 澪は、研究所の担当者と今後の対策について確認した。 特定の人間の注意だけに頼るのではなく、誰が扱っても、適切な手順を踏まなければ重要な情報を持ち出せないようにする。 今回の事件を、ただの失敗で終わらせないために。 それもまた、研究に携わる者として必要な仕事だった。 *** 数日後、智也は会社としての対応を進めていた。 情報の入手経路を確認し、入札における判断の経緯を整理する。関係者への聞き取りを行い、必要な説明と再発防止策を検討する。 会社を守るためにも、問題を曖昧にしたまま終わらせることはできなかった。 そして琴葉の関与についても、事実に基づいて整理する必要があった。「私は、智也さんに伝えていません。本当に、それだけなんです」 琴葉は、何度も同じ説明を繰り返した。「山下さんから頼まれただけで、情報が不正に持ち出されたなんて知りませんでした」 「お前が直接、情報を渡していないことは分かっている。俺は聞いていないからな」 智也は
智也は、目の前の彼女を見た。 琴葉は、納得できないという顔で彼を見返している。「……智也さん。私のこと、信じてくれないんですか?」 その問いかけに、いつもの甘えるような響きはなかった。それは責めるような、追い詰められた声だった。 以前なら彼女の不安を取り除くために、何かしらの言葉をかけていたかもしれない。 大丈夫だと。お前を信じていると。 けれど、今はその言葉が出てこなかった。 信じるかどうかを決める前に、確認しなければならないことがある。それを怠った結果、会社は今、重大な問題に直面している。 そして自分は確かな根拠がないまま、琴葉の言葉を受け入れようとしていた。「信じる、信じないの話にするな。今は事実を確認している」 「……それって、私を疑っているということですよね?」 「疑うために調べているんじゃない。何があったのかを明らかにするためだ」 自分の口から出た言葉に、智也はまた澪の姿を思い出した。 彼女も同じように言っていた。 誰かを疑うためではなく、事実を明らかにするため。感情で決めつけず、確認できたことだけを積み重ねていく。 以前の澪なら智也が困っていれば、まず話を聞いてくれた。彼の立場を考え、どうすれば問題を解決できるか、一緒になって考えてくれた。 今は違う。 彼女は、必要以上に彼のために動かない。 自分の仕事と、会社が負うべき責任を切り分けていた。その距離が、今になって少しずつ理解できる気がした。「智也さん……私、本当に、こんなことになるとは思っていなかったんです」 琴葉の声が、少し弱くなった。「山下さんから言われた数字を伝えようとしただけで、会社に迷惑をかけるつもりなんてなかった。ただ、智也さんの役に立ちたかったんです」 役に立ちたかった。 その言葉を聞いても、智也の気持ちは動かなかった。 彼女が何を考えていたのかは、これから確認する必要がある。善意だったのか、打算があったのか、それとも別の事情があったのか。 今の段階では、どれも断定できない。 ただ一つ、はっきりしていることがあった。気持ちがどうであれ、結果は消えない。「琴葉、このメッセージの履歴は、絶対に消すな。山下とのやり取りも、今回の情報に関係する連絡も、すべて保存しておけ」 「……分かりました」 「会社の調査担当から連絡があったら、見せ







