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第二章 誰も知らない私

Penulis: 相沢蒼依
last update Tanggal publikasi: 2026-08-14 11:54:54

 後輩を駅で降ろし、家へ帰る頃には、夜の帳がすっかり街を包んでいた。駐車場へ車を停め、エントランスへ向かう足取りは重い。

 つい数時間前まで、胸を弾ませながら歩いた同じ道とは思えなかった。

 玄関の鍵を開ける。静まり返った部屋には、人の気配はない。

「……ただいま」

 返事がないことは分かっている。それでも長年の癖で、声が自然と漏れた。

 靴を脱ぎ、リビングへ入る。智也はまだ帰っていない。そのことに安堵した自分がいた。

 今、彼の顔を見たら、何を言ってしまうか分からない。

 ソファへ腰を下ろし、大きく息を吐く。視線を上げた先で、寝室のドアが半開きになっていた。

 昼間、慌てて飛び出したままの部屋を見て、澪はゆっくりと立ち上がる。

 寝室へ入った瞬間、ベッドの上に置かれた紙袋が目に飛び込んできた。

 淡いアイボリーのワンピース。三周年の記念写真を撮るために選んだ特別な一着。

 そっと紙袋を抱き寄せる。そして柔らかな布地を指先で撫でると、胸の奥がじくりと痛んだ。

 不意に、視線がクローゼットへ向いた。それは、あの振込明細を見つけた場所。たった一枚の紙が、自分の世界を変えてしまった。

 五千万円。 

 私には貸してくれなかった、お金。

 白石琴葉。

 そして、智也の冷たい声。

 ――『彼女は、ただ責任上の存在だ』

「……っ」

 胸を押さえ、澪はその場へしゃがみ込む。

 息が苦しい。頭では忘れようとしているのに、あの言葉だけが何度も何度も蘇る。

 それでも、信じたくなかった。

「何か……理由があるんだよね?」

 そう呟きながら、自分でも苦笑してしまう。

(誰に問いかけているのだろう。返事をくれる人なんて、どこにもいないのに――)

 瞼を閉じると、思い出したくもないほど幸せだった頃の記憶が、ゆっくりと蘇ってきた。

 まだ大学生だった二人が初めてデートをした時、智也は笑顔で右側を歩き、車通りを遮ってくれた。

 彼が付き合いでお酒を飲みに行った夜は、酒臭さで澪が不快にならないか心配して、帰ってくるといつも客室で寝ていた。

 出会ってから結婚一年目まで、智也は澪に対して至れり尽くせりの優しさを見せた。だからこそ、今の現実が信じられない。

「……全部、嘘だったの?」

 ぽつりと零れた声と同時に、一粒の涙が頬を伝った。止めようとしても止まらない。涙は次から次へと溢れ、膝の上へ音もなく落ちていく。

「智也さん……」

 震える手で、スマートフォンを手に取る。

 聞きたいことがあった。どうして五千万円だったのか。どうして白石琴葉なのか。どうして、自分にあんなことを言ったのか。

 確かめたい。もし誤解なら、そう言ってほしい。

 連絡先を開き、智也の名前へ指を伸ばした、その瞬間だった。

 ――ブルルルッ。

 突然、スマートフォンが震える。画面に表示された名前を見て、澪は小さく息を呑む。

『御子柴 美佐子』

 それは、義母からの着信だった。夜に電話をかけてくるのは初めてだった。

 嫌な予感を押し殺し、通話ボタンを押す。

「もしもし……お義母さん、どうされましたか?」

『澪さん。今すぐホテルグランシアへいらっしゃい』

 挨拶も前置きもなく、義母は一方的に告げた。

「え……? 今から、ですか?」

『ええ。二階のフレンチレストランで待っています。急いでください』

「申し訳ありません、今日は本当に疲れていて……。別の日にしていただけませんか?」

 精一杯穏やかに断ろうとした。しかし、美佐子の声は冷ややかだった。

『駄目です』

 きっぱりと言い切られる。

『あなたに、大事なお話があります。――智也に関することです』

 一方的に電話を切られた。

 澪はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。今日だけで、何度「大事な話」を聞けばいいのだろう。

 正直、行きたくなかった。けれど、無視すれば智也に迷惑がかかるかもしれない。

 そう考えてしまう自分が、情けなくもあった。

「……まだ、癖が抜けない」

 澪は静かに立ち上がり、バッグを手に取った。

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